陶芸徒然帳〜雑記2009年6月黒茶盌の焼成 32-2009/06/29 色彩も、紋様も、 すべてを省略した黒茶盌。 そこには 物質的な豊かさとは正反対の 省略する贅沢があります。 究極までに省略していく贅沢を 私はバラの花に例えて 解釈しています。 ここに十本のバラの花束があります。 十本でこんなに美しいのだから、 百本にすればもっと美しい。 千本にすればさらにもっと美しい。 いや一万本、十万本、…。 それは際限の無い、 欲望の世界です。 精神的に満足を得ることは、 永遠に出来ません。 では逆に十本のバラを八本、五本、三本と減らしていってみましょう。 バラの花の美しさは減っていくものではありません。 たった一本のバラの花が 本当の美しさを 感じさせてくれるかもしれません。 その一本のバラは、 十本の中で最も美しい一本であり、 百本の中の一本 、千本の中の一本 一万本の中の一本 という美しさを持っているのです。 釜場風景 12-2009/06/16 この時期、窯場の裏の土手には 笹百合が咲きます。 淡いピンクのとても美しい姿が 私たちを楽しませてくれます。 その清楚な姿は 茶室の床の間にもよく合うのですが、 この花の持つ芳香が 少し気になります。 野原にあって風に乗ってくる芳香は すばらしいと感じるのですが、 お香や抹茶の香りには 少し強すぎてそぐわない気がします。 利休は 「花は野にあるがごとくに入れよ。」 と言いました。 そして、野にある時より さらにその美しさが引き立つのが 茶花だと私は思っています。 ただ、この笹百合だけは 「野にあるがごとく」ではなく、 「野にあるままに」が良いと思います。 笹や芒の葉に 隠れるように咲く姿と香りが 最も美しいと思います。 黒茶盌の焼成 31-2009/06/13 ただ、私は決して 土見を否定している訳では ありません。 三代 のんこうの茶碗は 土見が全体の印象を さらに引き締まったものにしているし、 一服のお茶をいただいたあとに 土見部分の土味を拝見することは 観賞する上での 醍醐味のひとつであると思います。 私の勝手な感じ方かもしれませんが、 飾り気の無い長次郎風の茶盌には総釉が、 瀟洒なのんこう風の茶盌には土見が合う、 と感じています。 黒茶盌の焼成 30-2009/06/10 初期楽茶盌にあこがれて 茶盌作りをしている私の作品は、 現在すべて総釉です。 独立して間もない頃、 2〜3個は土見の茶盌を 焼きましたが、 削り上げた時と 焼きあがった時のイメージが 著しく異なってしまった 記憶があります。 高台部分が土の色を呈していることが 全体の印象をこんなにも 変えてしまうのかと驚きました。 利休の言う「黒い茶盌」は やはり全体が黒い茶盌を示すのだと 感じました。 黒茶盌の焼成 29-2009/06/01 又ある時、 信長は、利休に命じて、 十個の黒い棗を作らせました。 利休はそれを盛阿弥に頼み、 塗りあがった棗を見た信長は その中から三個 選び出す様に命じました。 利休が選んだ三個に ひそかに目印をつけ、 先ほどの七個に混ぜて 再度三個を選ぶように命じました。 すると利休は、 前回と同じ三個を選んだ、と 言われています。 利休を試すつもりの信長は、 結局利休の才能を再評価する結果と なりました。 |
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