陶芸徒然帳〜雑記2009年2月黒茶盌の焼成 16-2009/02/27 「宗入文書」による系図では 初代 長次郎 二代 長次郎 三代 田中宗慶 四代 田中庄左衛門宗味 五代 田中吉左衛門常慶 六代 田中吉兵衛道入(のんこう) 七代 田中吉左衛門一入 八代 田中吉左衛門宗入 となっています。 現代楽家代々を数える時は 「宗入文書」が公表される以前のままに 初代長次郎から 二代となるのは常慶です。 「宗入文書」にある 二代、三代、四代、この三人が どのような存在であったのか 不明な点が多かったものと思われます。 この三人を含む四人の作が 長次郎作となっていることになります。 窯場風景 3-2009/02/22 マンサクの花が咲き始めました。 ふつうマンサクは黄色い花を咲かせますが、 ちょっと珍しい紅花マンサクです。 まだ春の花が少ない時期に いちはやく開花することから 「先ず咲く」が転訛して 「まんさく」と呼ばれるようになった というのですが、少し疑問が残ります。 というのは、春にいちはやく咲く花の代表は やはり梅であり、華やかな印象があります。 マンサクには悪いのですが、 「満作」の字を当てるには あまり華やかな花とは 言いづらいものがあります。 では、なぜこの花が マンサクと呼ばれるのか 面白い説があります。 花の名は地方に別名のあることが多く、 マンサクも「シイバナ」または「シシバナ」と 呼ばれます。 この語源は「シイナバナ」であり、 「シイナ」とは皮ばかりで実の入らないもみ、 又は果実を意味します。 マンサクの花弁は まさに「シイナ」のイメージなのですが、 あまり縁起の良くない名前を逆転して その反対語である「マンサク」が 習慣化されたというのです。 ずい分持って回った こじつけのようにも感じるのですが、 アシ(悪し)をヨシ(良し)と呼んだり、 ナシの実をアリの実と呼んだりするのと同じ、 言葉遊びに通じるものがあります。 見た目や気まぐれで、 変な名前をつけられた植物は 迷惑をしているかもしれませんが、 シイナバナと呼ばれるより やはりマンサクと呼ばれるほうが、 花も喜んでいるような気がします。 黒茶盌の焼成 15-2009/02/16 戦後、楽家より 宗入文書(そうにゅうもんじょう)」が 公表されました。 このことによって 初期の楽茶盌に携わった 人物のことが研究され, それまで解らなかったことが解明され、 理屈に合わないことが訂正されました。 利休の指導を受けて 楽茶盌をつくったのは 長次郎個人というより、 長次郎工房ともいうべきものだったのです。 黒茶盌の焼成 14-2009/02/09 利休の指導によって 長次郎が焼成したとされる楽茶盌ですが、 長次郎はもともと瓦職人でした。 室町時代末から江戸時代初期にかけて 数々の洛中洛外図屏風が描かれていますが、 その中で瓦葺の屋根は神社仏閣など 限られたものにしか見られません。 瓦製造業は当時においては 先駆的工業であり、 中でも長次郎は非常に技量の優れた 瓦製造者でありました。 京都二条城近辺から出土した 「聚楽城獅子棟瓦」の彫銘に 「天正二 春 依命 長次郎造」とあり、 天正二年命令によって長次郎が獅子棟瓦を 焼いていることがわかります。 利休が豊臣秀吉から聚楽第の普請の事を 任されていた関係から 瓦焼きの長次郎を知ることになり、 ついに茶盌を焼かせることになった、 と推測されます。 窯場風景 2-2009/02/06 温暖化の進んだ今でも、 冷え込む朝は バケツには結構分厚い氷が張り、 地面には霜柱が出来ます。 そんな中でも、 春に向けて新芽が 動き始めています。 霜柱の中に ひょっこりと顔を出した 貝母百合(ばいもゆり)の 芽が凍らないのは 不思議な気がするのと同時に 強い生命力を感じます。 貝母百合とは、何とも 意味の分りにくい名前ですが、 中国での「貝母」 (中国語で何と発音するか解りません)が そのまま日本でも 用いられるようになりました。 鱗茎が貝のように 二枚合わさっていることから この名が付いたそうです。 花びらの内側に 網目模様があることから 別名編笠百合ともいいます。 こちらの方が解りやすいですが 貝母百合の名で 親しまれることの方が 多いようです。 窯場風景-2009/02/02 独立した時に 鉢植えだった蝋梅を地植えにし、 この時期には毎年 美しい花を咲かせてくれます。 私が兵庫県川西市黒川に窯を築いて 独立したのは昭和63年でした。 翌年、1月7日までが昭和64年で、 昭和天皇が亡くなり、 1月8日より平成元年となります。 その頃は今と比べてとても寒かったです。 一冬に5〜6回は30cmほどの積雪があり、 その雪が何日も残っていました。 水道管が凍り、 午後になってやっと蛇口から 水が出るようなこともありました。 村の北側には妙見山があり、 南側には高代寺山があります。 二つの山に挟まれた谷を黒川が流れ、 村の名前にもなっています。 黒川を挟んで、南斜面と北斜面では 日照に相当差があり、 日当たりの悪い家では 一日中水道が使えないことも 良くありました。 日当たりの良い斜面は田畑にし、 人間が日々の生活を行うのは 日当たりの悪い場所というケースが 結構多いのです。 |
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